今回はガールズ・バンドの元祖である、70年代後半に活躍したランナウェイズについて紹介します。
そこで、今回の記事は主にバイオグラフィー、ディスコグラフィーを紹介していきます。
①はじめに
私が、中学2年の時、ヴォーカルが下着姿の女の子だげのバンド、ランナウェイズを知りました。
当時は単なる色物と思い、なんで日本でこんな人気があるのか不思議でした。
私が、ロックリスナーに復帰した2002年ごろ、ガールズ・バンドの元祖として再評価されだして、多少は気にはなっていましたが、実際にCDを購入したのは、ここ最近です。
はっきり言って、演奏テクニックや曲作りは未熟ですが、女性ロックを語る上で避けては通れないので、ここで紹介する運びとなりました。
②バイオグラフィー
1)結成からデビュー
ランナウェイズの結成は、女の子だけのバンドで一発当てようともくろむ、敏腕キム・フォーリーにより持たれされました。
スージー・クアトロに憧れ、ロックスターを目指していたジョーン・ジェットとキムがクラブで知り合った時、彼はバンド結成の具体的な構想を思いつきました。
そこで、同じくロック・ミュージシャンを目指していたサンディ・ウエストとジョーンを引き合わせた時、結成の話がまとまり、キムはメンバー探しを始めます。
まもなく、シンガー兼ベーシストでミッキ・ステール(のちにバングルスに加入)が加入し、トリオとして出発しました。
その後、リード・ギターのリタ・フォードが加入しましたが、ミッキ・ステールが脱退しました。
専任のヴォーカリストとして、地元のナイト・クラブで歌っていたチェリー・カリーをスカウトし、また、オーディションにより、ジャッキー・フォックスが加入しました。
その時のメンバーと担当楽器を整理すると以下の通りです。
チェリー・カリー (リード・ヴォーカル)
ジョーン・ジェット(リズム・ギター、ヴォーカル)
リタ・フォード(リード・ギター)
ジャッキー・フォックス(ベース)
サンディ・ウエスト(ドラムス)
2)人気グループへ
1976年、マーキュリーレコードと契約し、ファースト・アルバム「悩殺爆弾~禁断のロックンロール・クイーン」を発表しました。
本国アメリカではそれほど人気がでませんでしたが、日本ではチェリー・カリーのセクシーなステージ衣装や平均年齢が16歳であることなどで、早速話題となりました。
1977年、「クイーン・オブ・ノイズ」を発表し、ワールドツアーを行いました。
同年夏に、初来日し、大歓迎をうけました。そう、日本でのレコード・セールスはアバ、キッスなどと肩を並べるぐらいの人気ぶりでした。
また、日本でのTV番組にいくつか出演し、日本公演を収録した「ライブ・イン・ジャパン」はゴールドディスクを獲得しました。
しかし、その後すぐに、ジャッキー・フォックスが脱退し、後任として、ヴィッキー・ブルーが加入しました。
その後、看板シンガーであった、チェリー・カリーも脱退し、ヴォーカルはすべてジョーン・ジェットがとることになりました。
やはり、チェリー・カリーの脱退は、かなり痛手で、人気も次第に下降線をたどりました。
3)様々なトラブルから解散へ
4THアルバム「ウエイティング・フォー・ザ・ナイト」を発表後、1978年、さまざまな意見の不一致が原因で、バンドの育ての親であったキム・フォーリーと袂を分かち、マーキュリーとの契約も破棄しました。
バンドはトビー・マミズとマネージメント契約を結びます。
その後、ヴィッキー・ブルーが健康上の問題で脱退。後任にローリー・マカリスターが加入。
同年、アルバム「アンド・ナウ・ザ・ランナウエイズ」を発表しました。
しかし、このころになると、バンドはかなり荒れて、またパンクロックを指向するジョーンとハード・ロックやヘビー・メタルを指向するリタやサンディとの意見の不一致が目立ち始め、1979年ついに解散してしまいます。
③ディスコグラフィー
1976年 悩殺爆弾~禁断のロックンロール・クイーン
1977年 クイーン・オブ・ノイズ
1977年 ライブ・イン・ジャパン
1977年 ウエイティング・フォー・ザ・ナイト
1978年 アンド・ナウ・ザ・ランナウエイズ