ランナウェイズ メンバーのその後他

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今回は前回にひき続き、ランナウェイズについて紹介します。
そこで、今回の記事は主にランナウェイズの人気や評価について、解散後のメンバーの足取りについて紹介していきます。

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①ランナウェイズの人気と評価について

まず、人気についてですが、実際に活動していた70年代当時、本国アメリカので人気はいま一つでした。
しかし日本での人気は高く、初来日でのライブはまるで「ビートルズ旋風」のように歓迎されました。
他のバンドと比較すると、当時御三家といわれた、クイーン、キッス、エアロスミスと同じぐらい人気がありました。
それは言い過ぎとしても、先ほど紹介しました、フリートウッド・マックやハートよりは人気がありました。

評価の面ではどうでしょうか?
人気とは裏腹に、評価は決して高くなく、チェリー・カリーの下着コスチュームや、女の子だけのバンドが始めてだったこともあり、色物扱いされていました。(ちなみに、ジョーンはチェリーの下着コスチュームについて、色物バンド扱いされることを危惧していました)

バンドが荒れていた、また解散した原因も、ジョーンのパンク指向とリタやサンディのメタル指向の音楽的意見の相違にはほとんど触れられず、メンバー間の人気の格差による妬みとかボーイ・フレンドの取り合いとか、いかにも女所帯のもめ事が主であるような、センセーショナルでスキャンダラスな報道ばかりでした。

しかし、2000年代に入り、自伝映画「ランナウェイズ」が発表されたころから、次第にガールズバンドの元祖、女性ロックのパイオニアとして、再評価されるようになりました。
当時、完全な男社会であったロック界において、平均年齢16才の女の子たちが殴り込みをかけ、風穴を開けたことは、音楽的なレベルは別として、評価されるべきでしょう。
また、一部の評論家、サンディを女性ドラマーのパイオニアと高く評価しています。
いま聴いてみると、サンディのドラミングは、リズムキープが正確で、タイトで力強く、サウンドの要であったと思います。

②解散後のメンバーの足取り

1)ジョーン・ジェット

解散後に単身イギリスに渡り、本場のロンドン・パンクに触れて帰国。ロサンジェルスへ戻ったジョーンは、ブラック・ハーツを結成して、活動を始めました。アルバム「アイ・ラブ・ロックン・ロール」を発表し、タイトル曲は、シングル・カットされると大ヒットしました。全米第1位となり、アルバムの全米第2位となりました。

その後もコンスタントにアルバムを発表し、良いセールスを記録しますが、90年代にはいり、次第にパンク色を強め、ヒットチャートの表舞台には出なくなりました。

今でも、女性ロックのパイオニアとしてレスペクトされ続け、2015年にはジョーン・ジェット&ブラックハーツの名前でロックンロールの殿堂入りを果たしました。解散後の活動において、彼女が最も成功した、と言えましょう。

2)リタ・フォード

リッチー・ブラックモアからギターの手ほどきを受けるほど、ハード・ロック指向の彼女は、解散して3年たってよりヘヴィー・メタル指向を強め、またセクシーなコスチュームで、シーンに復帰しました。

最初はそのコスチュームが災いして、正当な評価を得られませんでしたが、歌唱力もアップし、アルバム発表するたびに評価が高くなりました。
88年に発表したソロアルバム「LITA」からは「キス・ミー・ダディ」が全米12位、オジー・オズボーンとのデュエット曲「クローズ・マイ・アイズ・フォーエヴァー」は全米10位を記録しました。

その後、ばったりと売れなくなりましたが、いまでもマイペースで活動を続けています。

3)チェリー・カリー

彼女は脱退後、78年にソロアルバムをリリースし、そっくりな双子の妹マリー・カリーとヴォーカルで共演し話題となり、のちにシェリー&マリー名義で活動しますが、大きな成功には至りませんでした。
その後は女優しての活動をメインにしているようです。

4)サンディ・ウエスト

サンディは、メンバーの中では一番ミュージシャンらしく、女性ロックドマラーのパイオニアとして評価が高かったですが、もっとも不遇でした。
悲しいことに、2006年に47才の若さで、肺癌により亡くなりました。

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